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エン・ゲヴについて (2)
日本隊による発掘 (1990-1992年、1998-19999年)
日本隊の発掘は先に述べたように、テル・アヴィヴ大学の「ゲシュル・プロジェクト」の枠組みの中で行われている。マザールらの発掘では「要塞」とされた北の部分の西斜面 (B地区、C地区) が調査されたが、日本隊の発掘では東斜面が中心になっている。
1990-1992年および1998-1999年の発掘で見つかった主な遺構は以下の通りである。
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「列柱式建物」(鉄器時代後期)
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「ケースメイト式城壁」(鉄器時代後期)
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ヘレニズム時代の建物
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ローマ時代 (?) の石膏窯 Limekiln
列 柱 式 建 物
鉄器時代後期すなわちイスラエル王国時代の建物が見つかった。この建物は平面図で見ると、大きな長方形の部屋を二列の石柱の列が縦に区切った構造になっていることから「列柱式建物 pillared building」と呼ばれているが、必ずしも石柱が用いられているものばかりではないので「Tripartite Building (=三つの部分からなる建物)」と呼ばれることもある。
この構造の建物はイスラエル各地で見つかっているが、一枚岩でできた柱が使われているのは非常に珍しく、エン・ゲヴ以外ではハツォールで見られる程度である。その他では石を積み上げるなどして柱にしている。
規模からすれば、公共の建物であることはまず間違いないのだが、用途については未だに結論は出ていない。これが最初に見つかった頃にいわゆる「ソロモンの厩 (うまや)」との関連が取り沙汰されたことから、今でもこの構造の建物は大きな関心をひいている。「厩説 (= stable)」の他には「兵舎説 (= barrack)」「倉庫説 (= storehouse)」「市場説 (= marketplace)」「商館説」などがある。
エン・ゲヴでは1992年までの発掘で、この形式の建物が二つ並んでいることがわかっていたが、1999年までの発掘では北側にさらにもうひとつ、併せて少なくとも三つの「Tripartite Building」が大きなひとつの建物を構成していることを予想させる発見があった。
この「列柱式建物」が建てられている部分の下には全体にほぼ同じ方向に建てられている建物が見つかっている。この下の建物にも、少なくともその一部には石柱が使われていたことが確認されている。
この下の層の遺構は、何らかの理由で地面を高く整地する必要があり、そのために盛り土をするための支壁とも考えられるが、詳しいことはまだはっきりしていない。
ケースメイト式城壁 Casemate Wall
1961年の発掘で何種類かの城壁が見つかっていたことから、日本隊の発掘でも当初から城壁の出土が予想されていた。1991-1992年に出土。石の壁が1メートルほどの間隔で二重になっていることから、イスラエル王国時代に多く見られる「ケースメイト式城壁 casemate wall」ではないかと予想されたが、二重の壁を繋ぐ隔壁 partition wall が発見されなかったため、結論を持ち越したまま、発掘は中断した。
1998-1999年の二シーズンは、この城壁がケースメイト式城壁であることを確認することと、城壁がどのような形で町を囲んでいたのかを解明することが中心課題となっていた。発掘地区は遺跡の北東端に近く、この部分が円形になっているのか、角度をもって北辺へと曲っているのかが焦点だった。1999年の発掘では城壁の延長は真っ直ぐに出土し、コーナーそのものには到らなかったが、城壁の北辺と思われる壁が出土した。隔壁も見つかり、城壁がケースメイト式であることも確認された。
石組みの最低部を確認するために、城壁の内側を城壁上面から3メートルほど掘ったが、水が滲み出るなどの障害のため、掘り進めることが出来ず、最低部には未だに到達していない。しかし、外側では城壁に沿って小さめの石が列を作って並べられているのが見つかっており、少なくともある一定の期間、城壁の石組み部分が地上に露出していたことが確認された。また、この城壁と細い石列の間からは漆喰の面が見つかっており、これによって城壁が地上に露出していた時期にはその表面が漆喰で塗られていたことが想像されるだけでなく、おそらく細い石列が並べられる以前の段階があったことも予想される。なお、この細い石列は日本の家屋などで「犬走り」と呼ばれる軒下の石敷きに類似するものではないかと考えられている。
二重の壁の間は石が敷かれていた。これは城壁が用いられていたときに、この「部屋」の部分が何らかの目的に使われていたことを意味している。しかし、そこから大量の土器が出土していることが問題を大きくしている。それらの土器はほとんどすべてが破片であり、この部屋が用いられていた時期の状態がそのまま残されているものとは考えられず、出土した大量の土器片はこの「部屋」が何らかの理由で埋められたときに、いわばゴミとして捨てられたものと考えられる。しかも、土器片は下の方で出土したものの方が年代的に新しく、上部に見られる黒色土からの土器片の方が古いという非常に複雑な状況になっている。
城壁に関して残されている最大の問題は、列柱式建物との年代的関係が確定できていないことである。残っている城壁の一番高い部分と列柱式建物の柱の底部の高さは3メートル以上違っており、城壁の石組みの上にレンガなどが積まれていたにしても、この差は通常では考えられないほどの差である。しかも、上に述べたように、城壁の外側の地表は城壁上面よりも低いところにあった可能性が高く、城壁の外側と内側の地表面が3メートル以上も違っているということになる。もし城壁と列柱式建物が同時代であるとすると、城壁という防御を目的とした設備を建設したことの意味が問われる。
ヘレニズム時代の建物
表土層が終わってすぐに出土するのがこの時代の遺構である。鉄器時代の建物とは構成はもちろん建てられている向きも違っているが、規模からするとやはり何らかの公共的な役割をもっていたものと考えられる。
ローマ時代 (?) の石膏窯 Limekiln
(準 備 中)
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