|
アタルガティス Atargatis
「デルケトー Derketo」とも呼ばれる (いずれもギリシャ語)。西セムの豊饒女神の中でアラム的なものとされるアシュタロテ (あるいはアシュトレト) の別名。アラム語の「アタル・アタ `Atar `Atta」からの変形であろう。シリアの雷神ハダド (ハダデ) の配偶神。後2世紀のルキアノス『シリア女神について』(Lucianus [Samosatensis], De Dea Syria) などから北シリアのカルケミシュ南方のヒエラポリス・バンビュケ Hierapolis Bambyke に神殿があったことが知られている。祭儀はディオニュソス祭儀に類した狂躁 (オルギー) を伴ったものとされ、フェニキアのアフロディーテやキュベレなどの地母神系の女神との関連性、同一性も指摘しうる。また、魚や水などと強く関連していることから、メソポタミアの女神イシュタル Ishtar にも通ずる。前1世紀の旅行家シチリアのディオドロスによれば、アシュケロンはアタルガティスに捧げられた大きな湖で知られるとされている (Diodorus Siculus II, 4, 2-6)。
第二マカベア書12章26節にはユダ・マカベアがゴラン高原南部のカルナイムにあったアタルガティス神殿を破壊したという記述がある。
参考:Hörig, M., Dea Syria: Studien zur religiösen Tradition der Fruchtbarkeitgöttin in Vorderasien, Neukirchen-Vluyn 1979, 249ff (172, n. 4).
(初出 2002年8月15日)
|
「アミランの土器の本」Amiran's Pottery Book
Ruth Amiran, Ancient Pottery of the Holy Land. From its Beginnings in the Neolithic Period to the End of the Iron Age, Jerusalem 1969.
古い本だが、新石器時代から鉄器時代までを広く網羅し、この地域の考古学における「土器研究のバイブル」という評価は今でも変わりはない。日本語では「アミランのポタリー・ブック」「アミランの(土器の)本」などと呼ばれている。
ルート・アミラン Ruth Amiran の名を冠してはいるが、実際にこの本を仕上げたのはアシスタントとして名前が載っているテル・アヴィヴ大学のピルヒヤ・ベック Pirhiya Beck とイスラエル博物館のウザ・ゼブルン Uzza Zevulun といわれている。ベックはパレスティナ考古学土器研究の最高権威と見なされていたが、1998年夏に急死。土器研究では今のところ目立った後継者がいないのはパレスティナ考古学にとって大問題である。
英語版は残念ながら数年前から絶版状態だが、最近ヘブライ語版が一切改訂なしで増刷された。英語版より写真がふんだんに使われており、その点ではむしろヘブライ語版がお勧めである。
最近、ほぼ並行する文化が見られるヨルダンについても土器の本が出版されたが (Ralph E. Hendrix, et al., Ancient Pottery of Transjordan: An Introduction Utilizing Published Whole Forms Late Neolithic Through Late Islamic, 1996)、例示されている土器の数はアミランの本に比べると格段に少ない。コンパクトな装丁で気軽に現場へ持ち込めるという点においては、大判のアミランの本よりも優れているといえるだろう。
(初出 1998年3月15日/更新 2001年1月26日) |
呪詛文書 Execration Texts
エジプト中王国時代のエジプト語文書で、粘土でできた小像に地名を書き、その領主に対して呪いをかけたものとされる。シリア・パレスティナの地名が具体的な都市名を伴って言及されるのはこれが最古である。この文書は二つのグループに分けられ、古い方が前20世紀後半から19世紀前半 (Sethe version)、新しい方が前19世紀後半から18世紀前半 (Posener version) に年代づけられる。言及される地名は以下の通り。
ビブロス
ウラサ Ullasa
アルカト `Arqat
ティルス Tyre
ベカー
レボ Lebo
シリヨン Sirion
アプム Apum (ダマスカス)
アッコ Akko
ミシュアル Mishal
テル・ケイサン Tel Keisan、テル・エン・ナフル Tell en-Nahl、テル・アブ・ハワム Tell Abu Hawam などと同定
アクシャフ Achshaph
レホブ Rehob
シムオン Shim`on
アフェク
アシュケロン
エグロン Eglon
ホルマ Hormah
ロド Lod ?
イヨン Iyon
アベル Abel
ライシュ (=ダン)
ハツォール
ペラ Pella
ベテシャン
(ベト・) ハラム (Beth) Haram
アシュタロテ Ashtaroth
ボズラ Bozrah
ゼル Zer
カナト Qenath
マアカ Maachah ?
ケデシュ Kedesh
ベト・シェメシュ (ガリラヤ)
エルサレム
シケム
Y. Aharoni, The Land of the Bible,1979, 144-147 参照
(初出 2001年2月4日) |
城 門 City Gate
いわゆる「6-Chambered Gate」(下図参照) は鉄器時代パレスティナではハツォール、メギド、ゲゼルなどで出土し、前10世紀中盤のソロモン時代に建造されたものと見られている。この年代づけは聖書の「ソロモンの大建築事業」に関する記述に根拠のひとつをおいている (列王上9:15など)。この見解を方向づけたヤディンは必ずしも聖書の記述のみに従って、それを年代づけたわけではなく、城門から出土した土器が前10世紀中盤だったという根拠をもって、この年代を引き出したとされているが、メギドにおけるこの城門を含む層がソロモン時代と結びつけられ、それゆえにそこから出土した土器が前10世紀中盤と年代づけられたことには変わりなく、この点で議論は循環してしまう。ある程度確かに云えることはメギド、ハツォール、ゲゼルの城門が同時代に属すと云うことのみであろう。
この城門をソロモンと結びつけて年代づけることについては、機会あるごとにヤディンに反論したアハロニも「この城門の出土は遺物の年代づけのための重要な基点」と考えていた。しかし、テル・イラの「6-Chambered Gate」は明らかに前8世紀に年代づけられることから、この城門の出土層を前10世紀中盤として前後の層位の年代を決定するというアハロニが主張したようなやり方は無効である。
上の図はわかりやすく描いたものであり、実際に出土した例ではない。図下方が城壁の外と云うことになるが、その部分に塔がつけられているものもある。また、両翼のくぼんだ部分の数が少ない「4-chambered gate」「2-chambered gate」は中期青銅器時代などに見られる。
(初出 2002年2月17日/更新 2002年3月16日)
|
『新聖地考古学事典』 NEAEHL
The New Encyclopedia of Archaeological Excavations in the Holy Land, Jerusalem 1993.
イスラエル、パレスティナ、ヨルダンで行われた発掘の大部分が遺跡ごとにまとめられている四分冊の大事典。ヘブライ語以外ではここにしか出ていない発掘報告もある。
かなりの分量を割いて書かれている遺跡もある。ある遺跡のことを知りたかったら、まずこの事典にあたるのが常道。各項目の終わりに附されている関連書籍、論文のリストは非常に便利。
編者はテル・ドル Tel Dor などを発掘しているシュテルン Ephraim Stern だが、それぞれの遺跡は主として発掘者によって記述されている。
旧版の The Encyclopedia of Archaeological Excavations in the Holy Land
(EAEHL) は聖書やキリスト教に関連した遺跡を中心にピックアップした日本語訳が『聖書考古学大事典』として講談社から出ている。 (初出 1998年3月15日) |
人 面 棺 Anthropiod Coffin
→ → 「ペリシテ文化」
“Tell”と“Tel”
遺跡の名前を何語で記すかというのは時として複雑な問題を引き起こす。メソポタミアやシリア・パレスティナの考古学の場合、古代名にコンセンサスがあれば、それを優先させ、現在名を添えるというのが通例になっているようだが、コンセンサスがない場合には不可避に現在名を用いざるを得ない。しかし、古代名にある程度のコンセンサスがあっても、より確実な現在名しか用いない学者もいる。これはドイツ人の考古学者に多いようで、極端な例を挙げれば、有名なメギドも単に tell el-Mutesellim とだけ表記されることもある。
さて、問題は現在名である。特にイスラエルおよび西岸地区の遺跡の場合は現代の政治的問題と関連して事態は複雑になる。ほぼすべての遺跡がアラビア語名をもっているが、イスラエルの建国以後、それにヘブライ語名が加わった。ヘブライ語名は基本的にアラビア語名をもとにしているが、古代名、特に聖書との関連で有力な候補がある場合にはそれをヘブライ語名として採用するケースも多い。
遺跡の近くに建設される町などでもこうしたことは起こる。シェフェラーにあるキリヤト・ガト Kiryat Gath という現在の町は建設当初、近くにある遺跡がペリシテのペンタポリスのひとつ、ガト Gath であるとされていたことから命名されたが、そののちペリシテのガトは別の遺跡と考えられるようになってしまったため、現在の町にその名が残るという事態になった。因みに以前ガトと考えられていた遺跡はテル・エラニ Tel Erani で、現在そう考えられているのはテル・ツァフィート Tell es-Safi`/Tel Safit である。
ヘブライ語名とするか、アラビア語名とするか? 時に頭を悩ませる問題ではあるが、ここでの本題は別のことである。「テル」という言葉は「古丘」「遺跡祉」などと訳すこともあるようだが、アラビア語で「小高い丘」といったような意味らしい。アラビア語の音に従ってアルファベット表記すれば「tell」となる。これがヘブライ語に受容され、考古学において同様の意味で用いられるが、綴りは「tel」で「L」がひとつである。現代イスラエルの中心都市テル・アヴィヴは「Tel Aviv」であって「Tell Aviv」ではない。また、英語などで「テル」という言葉を「遺跡祉」などの意味で直接用いる場合には「tell」と綴らなければならない。「tell」は英語に受容されているが、「tel」は単なるヘブライ語の音写でしかないのである。
遺跡名がアラビア語であれば「Tell」とし、ヘブライ語であれば「Tel」としなければならないわけだが、これについてはイスラエル人の考古学者でもときどき混乱していることがある。一番分かりにくい例はテル・アヴィヴ近郊の遺跡テル・カシーレであろう。アラビア語では「Tell Qasile」で、これが英語の論文などで一般に用いられている表記なのだが、ヘブライ語では「Tel Qasila」である。しかし、「Tel Qasile」という間違った表記もかなり頻繁に見られる。
* * * * * * *
最近、アラビア語の遺跡名に「Tall」を使うことが目立ってきた (イスラエルにおけるアラビア語名は以前のまま)。前からなかったわけではないが、これは書き言葉としてのアラビア語に従ったもので、読み方は「テル」のままである (「tell」は話し言葉としてのアラビア語を音写したもの)。アラブ諸国の遺跡でこの表記が目立つようになった背景に何か統一した決定があったのかどうかは定かではないが、少なくともヨルダン考古学については「Tall とせよ」という当局からの通達があったらしい。なお、小アジアなどの遺跡名に見える「テペ tepe」もトルコ語で「丘」を意味している (2001年4月26日加筆)。
(初出 2001年2月4日/更新 2001年4月26日) |
バイクローム土器 Bichrome Ware
一般に「バイクローム土器」というとき、それは単に「二色で装飾された土器」という意味しかないわけだが、パレスティナ考古学においては三つの特別な意味をもっている。
古い順から挙げていくと、ひとつめは中期青銅器時代 (MB) 末期から後期青銅器時代 (LB) 初頭に見られるカナン土器のことである。メギドでの出土例など、カナン文化では最も美しく紋様装飾が施された土器といえる。英語では Late Bronze Bichrome ware などと書かれるが、たいていは文脈で判断される。この土器に関しては先頃亡くなったクレア・エプシュタインの著作がスタンダードである (Clair Epstein, Palestinian Bichrome Ware, Leiden 1966)。
二つめは初期鉄器時代のペリシテ土器 Philistine Bichrome ware (参考 1 / 参考 2) で、三つめは「キプロ・フェニキア土器 Cypro-Phoenician ware」と呼ばれているもののうちに見られる Phoenician Bichrome ware である。ペリシテ土器は前12世紀後半、フェニキア土器の方は前11世紀中盤にあらわれ始めたとされており、それに従えば、フェニキアの方が影響を受けたと考えるのが自然だが、両者の関係は年代的に前後するというよりも、同時発生的なものではないかという考えも提示されている。しかし、フェニキア海岸 (現レバノン) におけるフェニキア・バイクローム土器の出土例が非常に限られているため、定説の年代を修正するには到っていない。
* * * * * * *
後期青銅器時代のキプロスにもバイクローム土器と呼ばれているものがあり、パレスティナにおける一連のバイクローム土器との関係が論じられている。最近、ベースリング土器 Base Ring Ware と併せて、この土器をテーマにした論文集が出版された (P. Åström, ed., The Chronology of Base-ring Ware and Bichrome Wheel-made Ware. Proceedings of a Colloquium held in the Royal Academy of Letters, History and Antiquities, Stockholm, May 18 and 19 2000, Stockholm 2001) (2002年2月7日加筆)。
(初出 2001年3月15日/更新 2002年2月7日) |
「ミケーネ文化」Mycenaean Culture
「ミケーネ文化」という言葉は世界史の教科書にも出てくるほど一般的に知られているが、その時代は「後期青銅器時代」と同じ時代を意味しているといっていい。
ギリシャ考古学ではギリシャ本土の青銅器時代に「Helladic Period」という言葉が使われており、前3600年ごろから前1100年ごろまでとされている。この時代は前期、中期、後期に分けられ (略号はそれぞれ EH、MH、LH)、そのそれぞれがさらに細かく区分される。ミケーネ文化の時代は「後期 Helladic 時代」にあたる。
ギリシャ考古学では「後期 Helladic 時代」という言葉を使う頻度は高いのだろうが、周辺地域の考古学では「後期 Helladic 時代」が使われることはまずなく、「ミケーネ時代 Mycenaean period」とされる。この時代もさらに三つに分けられ、略号では「Myc I/Myc II/Myc III」となるが、それがさらに分けられて「Myc IIIA/B/C」などとなる。日本語の本にはこの対応関係を十分に理解せずに書かれたものがときどき見られるので注意が必要である。
ミケーネ文化の最盛期は「Myc IIIA2」から「Myc IIIB」とされているが、それ以前にクレタ島のミノア文化が最盛期を迎えており、年代順で見れば、ミケーネ文化がミノア文化を駆逐したかのように見え、ミノア文化の崩壊をミケーネ人によるものとする説が唱えられたこともあった。しかし、両者は常に併存しており、単なる文化的な最盛期の違いと考えた方がいいだろう。高校の世界史の教科書などに長い間この古い見解が載せられていたことから一時は批判の対象となっていた。現在それが修正されているかは確認していないが、事典などではミケーネ文化はミノア文化を継承したものとする記述がまだ一般的であるようだ。
ギリシャ考古学における青銅器時代の文化名称は英語では地域に従って、ギリシャ本土の「Helladic」、クレタ島の「Minoan」、キクラデ諸島の「Cycladic」が用いられている。キプロス考古学でも同様に「Cypriot」を用いており、これらはそれぞれ前期、中期、後期に分けられるが、区分の年代はそれぞれ微妙に違っている。
イスラエル考古学でも青銅器時代を「カナン時代」、鉄器時代を「イスラエル時代」と呼ぼうと提唱されたことがある (Y・アハロニなど)。ギリシャ考古学に倣ったのかどうかは定かではないが、そこに政治的意図を見いだして批判する人が必ず出てくるのがイスラエルの考古学の宿命である。いずれにしても、青銅器時代が青銅器によって特徴づけられる時代ではないことを示す試みだったのではないだろうか。なお、ごく一般向けの書物を除いて「カナン時代」「イスラエル時代」という名称は用いられていない。(2002年7月27日加筆)
「Helladic Period」について少し書き加えておく。この言葉は研究社の『リーダース英和辞典』によれば「ヘラドス時代」と訳すことになっているようだが、「Helladic」はギリシャの古名であり現代ギリシャの国名でもある「ヘラス Hellas」から派生したものなので、「ヘラス時代」とした方がいいように思われる (ギリシャ語で「Hellad-」の主格は「Hellados」ではなく「Helladikos」ではないだろうか?)。日本のギリシャ考古学の専門家がどのように対応しているのかは確認していない。
また、「Helladic」に類する言葉に「Hellenic」「Hellenistic」がある。「Hellenic」は「Helladic」以後アレクサンダー大王以前のギリシャ文化を意味し、「Hellenistic」はアレクサンダー以後で、一般に「ヘレニズム時代」として知られている時代の文化を意味している。 (初出 2000年9月11日/更新 2002年7月27日) |
レッド・スリップ・バーニッシュ土器 Red Slip Burnished Ware
「赤色泥漿研磨土器」などと訳すことができるかも知れないが、無意味なので英語の音写を用いることにする。「スリップ」は泥漿 (でいしょう) とも呼ばれる液状粘土を意味し日本語にもなっている。「burnish」は革、小石、骨、金属などで表面を磨いて光沢を出す工程を云う。つまり、焼く前の土器の表面に液状の粘土を塗り付け、それを磨いて光沢を出してから焼いた土器ということである。
イスラエルおよびその周辺では鉄器時代の前11世紀中盤に現れ始め、その後、少なくとも前9世紀初頭まで見られた。いわゆる「サマリア土器」もこの技法を用いて装飾されている。
この装飾法以前に赤のスリップがかけられているだけのものがある。前12世紀初頭のベテシャン出土のものが最古とされているが、同時代に並行例はないようである。テル・ゼロール出土のBiconical Jug に赤に近い色でスリップがかけられているものがあるが、年代的には後期青銅器時代に属すのか、初期鉄器時代に属すのかはっきりしない。後期青銅器時代であれば最古、初期鉄器時代であればベテシャンとほぼ同年代ということになるが、同じ技法であるのかは必ずしも明らかではない。その他、ハツォール等でも後期青銅器時代のものが発見されている。スリップの技法そのものは少なくとも中期青銅器時代には見える。
この技法の発展過程をA・マザール Amihai Mazar はテル・カシーレ第12層から第8層までの出土例を統計的に追っていくことで明らかにした。それによれば、第12層でスリップのみのものが現れ始め、第11層にはそれが一般的になり、バーニッシュがかかっているものもわずかに現われ始める。そして、第10層でスリップ、バーニッシュとも用いられているものが一般的になり、技術的には一応の完成を見る。第12層は前12世紀後半、第11層は前12世紀後半から11世紀中盤、第10層は前1050-990年頃に年代づけられる。
絶対年代の基準となるメギドでも、スリップのみのタイプが前11世紀とされる第6層B以降で出土している。同様にスリップのみのものが前1000年に前後するアシュドド第10層、テル・ミクネ第5層から第4層で多く出土しているが、カシーレの例は他の遺跡よりも例外的に早く、スリップのみのものが多く現われるのは前11世紀後半以降とするのが一般的であり、マザールもそう結論づけている。スリップの上にバーニッシュがかかっているものに関しては、カシーレ第10層と同時代の層位で見つかった例は今のところなく、前10世紀以降のものと考えられる。
これに対してホラデイ J. S. Holladay Jr. がゲゼル出土のものをやはり統計的に研究し、この技法の完成を前10世紀後半であるとし、その結論に基づいて、対応するテル・カシーレのそれぞれの層位、イズベト・ツァルタ第2層、テル・マソス第2層などの年代を下げることを主張したが (Holladay, BASOR 277/278)、統計サンプルの取り方などに問題があり、方法論的に見て、明らかにカシーレの研究の方に分があるようである。
(初出 2001年4月27日/更新 2001年5月4日) |
レヴァント/レバント Levant
フランス語で「日の昇る所」の意。その意味で「オリエント」と同義だが、考古学においては、島を含む東地中海沿岸およびその周辺地域、特に現在のシリア、レバノン、イスラエルの海岸部を示す総称的な地理概念として用いられることが多い。
現在の国境が意味をなさない場合あるいは政治的な理由等で国名への言及を避けるようとするときに使われる傾向がある。特にイスラエル・パレスティナという複雑な歴史的政治的状況を含んでいる地域を指すときには「南レヴァント」が用いられることもある。かつてはギリシャ・ローマ以来の地理概念としてのパレスティナが用いられていたが、それも政治的状況を否応なしに内包するようになったことから、「レヴァント」が使われるようになったのではないかと思われる。
(初出 2001年11月15日)
|
ページ 1
全 項 目 一 覧 へ
|